LOGIN木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。
イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを見ていた。 「あなた……イーシュ? イーシュなの? あらまあ……すっかり大きくなって……」 随分と格好良くなって、女の子が放っておかないでしょうと、老婆は柔らかく表情を綻ばせた。イーシュは毒気を抜かれながら、彼女へと小さく頭を下げる。 「ハンナ夫人……本当にお久しぶりです」 「いつでも訪ねていらっしゃいと言ったのに、あなたときたら全く顔を見せにきてくれないんだもの。ところで、もう礼拝堂には顔を出したの? 大司教様がちょうど、今朝、レシェールから帰ってきたところなのだけれど」 「大司教様? レイモン神父はもうこの村にはいらっしゃらないのですか?」 大司教と聞いて、イーシュは眉根を寄せた。レイモンがいるのであれば、せっかくだから会っていきたい気持ちはあったものの、自分の身の上を考えればわざわざ見ず知らずの高位の聖職者と接触するような愚は冒したくなかった。 ハンナは渋い反応を示したイーシュの表情を見ると、 「ああ、イーシュは知らなかったわね。二、三年前だったかしら、また教皇様が代替わりなさったでしょう? 神父様はあのときに、昇進なさったとかで、今は大司教様になられているのよ」 それなのにこの村から離れたがらないなんて、本当に物好きなお方よねえとハンナはのんびりとした口調で言った。イーシュはこの村を離れてから、各地を転々としてはいたが、レシェールで教皇がその地位を剥奪され、枢機卿をはじめとした教会の重鎮たちも軒並み更迭されたという話を耳にしてはいた。
事の起こりはこの村で神聖騎士団が起こした一連の事件が明るみに出たことだった。 あまりに強引かつ手段を選ばないやり口に、彼らを運用し、その蛮行を容認していた前教皇のネハン・グレナデンや枢機卿団、強硬派の高位の聖職者らに事の是非が問われる運びとなった。 いくら教義に反する存在とはいえ、『悪魔の力』を宿した人間を追いかけ回した挙句、拷問に掛けた末に見せしめのように処刑するやり方を快く思ってはいなかった一部の穏健派がこれを契機に声を上げ、強硬派と対立した。 イーシュは知らない事実だったが、最初に教会のやり方に疑問を呈し、声を上げたのが、ヴェレーンに神父として赴任しており、事件の当事者でもあるレイモン・ツェルヒである。その目で神聖騎士団の悪行をありありと目にしてきた彼はちょうどいいスケープゴートとして穏健派の旗頭に担ぎ上げられた。 そして、教会組織の内部対立にあたって、立ち上がった穏健派の聖職者たちに力を貸したのは王弟だったと言われている。彼が事態に介入したことにより、教会内部を牛耳っていた強硬派の高位聖職者たちは王国法の下に裁かれた上で軒並み更迭されることとなり、教皇の交代を余儀なくされた。 ネハン・グレナデンの次の教皇を強硬派から選出することは事実上不可能であり、候補として推薦された穏健派の旗頭であるレイモン・ツェルヒもその地位に就くことを固辞したため、事の次第をどちらにも与せずに見守っていた中立派筆頭のラガニス・マローカが消去法で教皇の座に就くこととなった。 王家が教会組織に向ける目は厳しく、教会は一切の武力をもつことを禁じられ、神聖騎士団は解体に追いやられた。法の裁きを経ずに処刑を独自に行なうことも禁じられたため、なし崩し的に異能者に対する教会の追及も以前ほど厳しいものではなくなっていた。 少なくとも普通に暮らしている分には、命を脅かされることはなくなってきてはいるものの、何となくひとところに長く止まる気にはなれなくて、イーシュは国内を流離ながら暮らしていた。故郷のフィエロ村は八年前に滅びてしまっていたし、姉のユーフェがいる王都に腰を落ち着けて暮らすのも何だか今更感があって居心地が悪かった。かといって、散々迷惑をかけたこの村に居続ける気にもなれず、自分の心身を守るためにも、誰とも深く関わらずに済む旅暮らしをイーシュは選んだ。「あの……ハンナ夫人、一つお願いがあるのですが……」
「あらあら、何かしら」 「そこの庭の花を少し分けてもらえませんか」 イーシュは茶色い花びらが顔を覗かせ始めた花を手で指し示す。リスルさんに持っていってあげたくて、と彼がぼそりと呟くと、ハンナはくすりと笑った。 「いいわ、少し待っていてくれるかしら」 そう言うと彼女は家の中から緑色のサテンのリボンを持ってくると、皺だらけの手で庭の花を数本摘み取った。リボンで花を束ね、彼女はイーシュにそれを差し出すと、悪戯っぽい表情を浮かべ、 「ほら、できた。はい、どうぞ。ねえ、イーシュ、このリボンの色、あの子の目の色によく似ていると思わない?」 「は、はい……あ、あの、ありがとうございます……」 イーシュはしどろもどろになりながら礼を述べ、小さな花束をハンナから受け取った。彼女がいうあの子が誰を差しているかは明白であり、完全に面白がられている気がする。 イーシュは重ねて礼を述べると、ハンナと別れ、礼拝堂へと足を向けた。青い屋根の礼拝堂の建物の前に、祈りを捧げる女性の姿を模した儚げな雰囲気の銅像が立っていた。昔、読んだ絵本に載っていた神セレーデの像かとイーシュは一瞬思ったが、その相貌は明らかに彼がよく知る女性のものに酷似していた。
銅像の横に佇む石碑の文字をイーシュは目でなぞっていく。 『奇跡の力をもって人々を救済し”暁の聖女”リスル・フレンツァ、この地に眠る』 『紅の魔女』などという忌まわしい通り名はもちろん、『暁の聖女』などという仰々しい呼び名も生前の彼女はきっと望んでいなかっただろうとイーシュは思った。彼女は常に正しく、自分のすべきことをしようとしていただけだった。 「私たちを恨みますか? イーシュ君」 背後から男の声に名前を呼ばれ、イーシュは振り返る。五年分の年月をその身に刻んだ中年の男が、記憶にあるよりも高価そうで凝った装飾の法衣を纏って立っていた。 「レイモン神父……お久しぶりです。いえ、今は大司教様とお呼びするべきでしたね」 イーシュの言葉にレイモンは苦笑する。 「ええ、お久しぶりですね、イーシュ君。確かに私は今や大司教の身ではありますが、所詮は派閥争いの過程で体のいいスケープゴートに便宜上与えられた地位に過ぎませんし、そう畏まることはありませんよ。私自身は今もただの田舎暮らしの神父のつもりです」 皆に神の教えを説き、薬を作りながらのんびり暮らしながら一生を終えたかったんですが、などとにこやかに宣いながらレイモンはイーシュの横に並び立つ。 「きっと、シスター・リスルはこのように祀り上げられたくて、異能で人々を癒やして回っていたわけでもなければ、村長やあなたの命を救ったわけではないとわかっています。だけど、私たちはこうするしかなかったのです。彼女に報いるためにも、イーシュ君のように異能を持つ人々のためにも。イーシュ君、彼女が最期まで何を願っていたか、覚えていますか?」 ええ、とイーシュは小さく頷いた。 リスルは最期まで、イーシュが生きる未来を望んでいた。彼が生きていくこの先の未来に希望を抱いて、自らの命と引き換えに、最後の力を振り絞って、死の淵から引き戻してくれた。 「あのころ、当時の教皇聖下に連なる強硬派が教会組織を牛耳っていて、内部の腐敗はひどいものでした。強硬派の目に余る横暴に対する問題提起のため、私たちには絶対的な聖人が必要でした。教会が排除しようとしている『悪魔の力』は必ずしも何かを害するためのものではないと、そして神聖騎士団の悪行がどのような結果を招いたか、わかりやすい形で知らしめるため、彼女をこうした形で祀り上げるしかなかったのです」 レイモンは懺悔するように言葉を紡いでいった。しかし、イーシュは彼を責める気にはなれなかった。 ここ最近、普通に生活する分には随分と暮らしやすくなったのは、レイモンの尽力による部分があったのだと知ってしまった。純粋にリスルやイーシュのためだけではなく、教会内部における思惑が絡んだものであったとしても、イーシュはその事実が嬉しかった。 「ありがとうございます。……俺は、何も知らなかったんですね。誰のおかげで、今、こうして過ごせているのか」 「私は、シスター・リスルの高潔さを汚しただけで、結局、何ができたわけではありません」 イーシュが礼を述べると、レイモンは首を横に振る。それでも、とイーシュは言葉を重ねる。 「どういう形であれ、リスルさんの思いを覚えていてくれて、俺たちを取り巻く状況を変えるきっかけを作ってくれたのは間違いないじゃないですか。俺はそれで充分です」 「イーシュ君……」 レイモンはイーシュの顔を見、微笑んだ。 「イーシュ君、あなたは変わりましたね。単に大きくなったというだけでなく、人として良い方向に。とてもいい顔をするようになりました」 「……それはどうも」 イーシュは居心地の悪さを感じて、レイモンから視線を逸らす。当時の自分は、生きることに絶望した無力な子供だった。もし、イーシュがあのころと比べて変われたというなら、この村で過ごした日々と何よりもリスルのおかげだ。 それよりも、とイーシュは銅像を見上げながら話題を変える。 「……あれ、似てないですね。リスルさんはあんな感じじゃないですよ」 銅像の女性の顔立ちはリスルに酷似していた。しかし、似ているようで身に纏う雰囲気は全然似ていないととイーシュは思う。 「リスルさんはもっとこう……強くて、優しくて、格好良くて、綺麗な人でした」 例えるならこんな感じです、とイーシュは手の中の小さな花束をレイモンへと見せる。厳しい冬の寒さのような逆境にも決して屈することなく、気高く強く正しくあろうとする、凛と咲く花のような人だった。 「イーシュ君には、シスター・リスルのことがそう見えていたんですね」 よく見ていたんですね、とレイモンはしみじみと言う。イーシュは恥ずかしさで焦げ茶の瞳を宙に彷徨わせながら、ぼそぼそと言う。 「そりゃ……あのころの俺はあの人に憧れて、追いつきたくて、ずっとあの人のことを見てましたから。それにたぶん……あの人は俺の初恋でしたから」 あのころ、リスルの側にいることで、イーシュは彼女のようになりたいと憧れた。彼女のように強い人間になりたいという思いが前を向いて生きる活力を与えてくれたのだとイーシュは思っている。 いつだって強く正しく気高いけれど、女の人らしく弱く儚い部分もある彼女の近くにいるうちに、男として彼女を守れるくらい強くなりたいと思うようになっていた。さほど長い間ではなかったけれど、一緒にいて、彼女のことを知るほどに大切な人になっていった。 姉のユーフェと離れ離れになったことによる年上の女性への憧憬と思慕の念を履き違えていただけだったかもしれないけれど、あのころのイーシュは彼女のことが好きだった。その気持ちは今も変わらずにイーシュの中にあって、多感な少年期の幼い思い出として割り切るにはまだ時間がかかりそうだった。 それをわかっていたのかいなかったのか、今になってはわからないが、リスルはイーシュを異性として扱うことはなく、弟のような存在として接していた。お互いに抱く”大切”という感情がついに一度も噛み合うことがなかったことにイーシュはほろ苦さを感じる。 イーシュは彼女を模した銅像の足元に膝を折ってしゃがみこむと、手にしていた花束をそっと置いた。冷たい風に緑色のリボンが揺れる。イーシュは目を閉じ、そっと両手を合わせた。 「リスルさん……」 伝えたいことはいくらでもあった。本当は彼女が生きているうちに伝えたかったこともあるし、今のイーシュだからこそ伝えられることもある。 けれど、リスルが最期まで願っていたことを思えば、まず最初に何を伝えるべきかは明白だった。 リスルさん。あなたのおかげで、俺は今、生きてここにいます。あなたが願った未来を、今、俺は生きています。 そう心の中で言葉を紡いでいくイーシュに、記憶の中の彼女が微笑みかけた気がした。 イーシュが彼女と初めて出会った季節と同じ色の日差しが彼らの上を照らしていた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







